イメージの不思議とカメラの奇妙──視覚文化の入口

茂登山清文

写真は不思議です.

写真を見ていると,あれっ,こんなものが写ってる,って気づくことがありますね.お気に入りのタレントを撮ったら,その後ろにダサいおじさんが入っていたり,とかです.それならまだしも,怪しい人影がボーッと写っているとか・・心霊写真ですか.古い話では,妖精たちをコティングリー村の二人の少女が撮りました.でもこれは作り物でした.そんなに大げさなことではなくても,写されたものが,別の何かに見えることは,よくありますね.メディアアーティストのジャン=ルイ・ボワシエさんは,木の枝に「木」という文字を見つけるようなプログラムをつくりました. それとは逆に,写したはずなのに撮れていない・・っていうような経験はありませんか? あんなにきれいな夕陽だったのに,白っぽくなっちゃって,ガッカリですね.トーマス・ルフというアーティストは,9.11の時,偶然マンハッタンにいたのですが,撮ったつもりの写真が,後で現像してみると何も写っていなかったと言います.でも彼は,その後に,ネットに上がっていた他人が撮った写真を使って自分の表現を見いだし,『jpeg』と名づけられたシリーズの作品を発表しました.

 

カメラもアプリも奇妙です.

きれいに撮ろうと工夫しなくても,シーンセレクトを使えば,プロのように,花も美肌も実物以上に美しくなります.カメラに向かって笑いかけると,シャッターが降りて,楽しかった記憶をつくります.カメラを手に左右に回すとパノラマ写真が撮れて,ちょっと現実とは違う感覚ですが,グッと視野が広がります.自分が持っているコレクションから,特定の友だちの写真を集めるなんてこともしてくれます.少し前のデータですが,Facebookには毎日,3億枚の写真がアップロードされ,27億の「いいね!」が押されると言われます.途切れることなく津波のように押し寄せる途方もない数の画像のなかで,瞬時に反応しながらそれらの価値を判断しているわけです.それはそれで高度な能力でもあるのですが,眼差しはしばしばパターン化し,イメージはすぐに忘れられる運命にあります.安易に手に入れられるツールたちのおかげで,残念なことに,私たちはイメージをゆっくり見るとか,腰を据えて写真を撮る,といったことをしなくなりつつあります.

 

そこで,

目の前の風景に,ボーッとでもいいのですが,視線を留めます.ひとつのイメージを,しばらくの間,じっくりと眺めます.そうして,一枚だけ写真を撮ってみる.視覚をめぐる文化は,そんなところにも始まりがありそうです.