“何者にもなれる君へ”
これは私たち芸術教養領域リベラルアーツコースが、受験生の皆さんや領域学生のみんなに向けて掲げることばの一つです。芸術と社会に関するさまざまな事象を学ぶ私たちのコースの特長をよくあらわしています。ただ、私自身が何者にもなれる人間かと問われたら「はい、そうです」と答える自信はありません。むしろ「いいえ、ちがいます」と答えるでしょう。
私はこれまで多くの肩書きを必要に応じて使い分けてきました。研究者、教員、大学講師、准教授、映像作家、映画監督、批評家、コピーライター、映画上映者、映画館スタッフ、プロデューサー、コーディネーター、フリーター。あちこちでさまざまな顔をして、それぞれにやりとりするうちに、いつの間にか自分が何者なのか、わからなくなってしまいました。つまりは、ずっと何者にもなれないまま生きてきたのです。
けれども変わらなかったことが一つだけあります。映画が好きなことです。映画を見て、自分の知らない世界のことを知り、行ったことのない場所、会ったことのない人、生きたことのない時代に想いを馳せます。調べたり、考えたり、詳しい人に話を聞きます。とても楽しいです。もしも映画がなかったら、と考えることがたまにあります。たぶん私は存在しなかったでしょう。少なくとも今のような私ではなかったはずです。
私が何者の顔をしようとも、映画という芸術的な表現が私を形作り、存在させ、語らせてきたことに変わりありません。そんな私や他の誰か(それはあなたかもしれない)を通して、映画はこれからも自らの魅力や面白さを伝え残していくのでしょう。
さて、今年度の私たち芸術教養領域の特別客員教授に第161回直木賞(2019年上半期)を受賞した小説家・大島真寿美先生に就任いただくことなりました。受賞作『渦 妹背山婦女庭訓 魂結び』(2019年、文藝春秋)において、大島先生は主人公の浄瑠璃作家・近松半二をして次のような境地へと到達させます(以下、引用を《》で示します)。
《渦。そこに足を浸せばわしもすぐさま溶けていく。わしがわしであってわしでなくなる。であればこそ、この渦から生まれたがっている詞章をずるりずるりと引きずりだして、文字にしてこの世につなぎ止めていけるのではないか。》
半二が「渦」と喩えるのは、江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎の小屋が並んだ大阪・道頓堀のこと。すなわち、作者としての私が一人で存在しているのではなく、浄瑠璃(文楽)という芸能をぐるりと囲む大きな文化の中で、先人たちの情念を背負いつつ、後世へとつなぐために、生かされている。そう気づいたのです。つながりの中に身を置いてこそ、私が何者であるかが見えてくる。私たちにとって、とてもヒントに満ちたことばです。
清々しい読後感の余韻に浸りながら、続いて大島先生の『ツタよ、ツタ』(2016年、実業之日本社;文庫判は2016年、小学館)に手を伸ばしました。琉球(沖縄)に生まれ育った女性ツタの激動の人生を振り返る物語。読み始めて間もなく目を見張りました。次の一文が飛び込んできたのです。
《ツタはまた一方で、わたしは何者にもなれる、とも思っていた。》
『ツタよ、ツタ』は、まさにこのことばをめぐる物語だったのです。不思議なことが起こるものです。大島真寿美先生を本領域にお招きした時点で、私はそれを知りませんでした(まず先に無学と無礼を恥じねばなりません)。そして私たちが考えあぐねてきたのと同じことを、大島先生もまた考えて、物語を紡いできたと知ったのです。このような幸福な偶然はどうして生じるのでしょうか。まるで自分が小説の物語の中に入ってしまったかのような気持ちになります。なぜだか感極まって、泣いてしまいそうです。なので『ツタよ、ツタ』から次のことばを引用することで、この物語をいったん閉じたいと思います。
《みんな繋がっているのだ。
これとあれ、あれとそれ。それとこれ。これとそれ。目に見えぬ糸できちんと結びついている。どの結び目を辿るかによって、見えてくるものはがらりと変わる。どれとどれを繋ぐかで、現れる物語がちがってくる。》
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(本領域では今秋、大島真寿美先生による公開講座を計画しています。まとまり次第、当サイトやSNSを通じて情報発信していきます。たくさんのお話をお聞きできることを楽しみにしています。)